気付かせるようにする

このところ2週間、聖餐会がとってもいい雰囲気。これってあることを始めたからなんだよね。
 
2週間前の役員会で、聖餐会がやかましいという意見が出て、どうしたらいいかたくさん意見が出ました。みんなけっこう色々と不満や要望を出したけど、監督の反応はさすがだった。要約するとこう。
『新たな方針やルールを作ることは可能な限りしない。できない人は罪悪感を感じるし、できない人を裁いてしまうから。
話や文書での指示より良い方法は、相手が自分で気付くようにすること。
また、そのために誰かに何かをやってもらうのではなく、自分に何ができるかを考えてください。』
これが監督のすごいところ。強制しない。忍耐強く見守る。
しばらく前に監督の奥さんが『目立たない魅力』、『何かをしない優しさ』と言っていたやつだ。
 
監督の言葉は、確かにその場に必要な言葉だった。良いことのために話し合っていたはずなのに、要望が不平に傾きかけていたからだ。争いの心に支配されようとしていたのだ。それが変わった。
僕も意見は有ったが、まだ話すべきではないと感じ、あえて何も言わずに聞いていた。おかげで、僕は空気の変化に気がついた。
僕が考えていた二つの意見の一つは、監督が望んでいた『自分がすること』だった。それはこうだ。
礼拝堂のドアを早めに閉じてしまい、一番奥のドアだけを開ける。ドアのところに一人づつ立ち、通る人にささやき声であいさつする。あえて静かにするように言わなくても、3〜4人にささやき声であいさつされたら、たいていの人は気付いてくれるはず。
 
宣教師に協力してもらい、さっそく次の日曜に試してみた。結果は…びっくりするぐらい効果的だった。連休で普段にぎやかな子供たちがほとんど休んでいたこと、宣教師が『礼拝堂では静かに』と言っていたことを差し引いても、とても効果的だった。
そして2週目の今日。強敵の子供たちも不思議なぐらい静かにしていた。前奏曲がちゃんと聞こえる程の静けさは、いったいいつ以来の事だろう?
 
監督の方針はちょっと遠回りに見えるけど、選択の自由を尊重する事であり、人を真に成長させる方針だと思う。
神様もよく、というか、ほとんどの場合こちらの方法を使われるんじゃないかな。だから注意力と熱意が必要。
 
さあ、来週は可愛いけどうるさい姪っ子甥っ子が来るぞ。3歳と1歳は気付いてくれるだろうか…。